その 5 オリンピック

昨年の夏、アテネオリンピックは日本のメダルラッシュに沸いた。柔道、水泳、また久しぶりに世界一に返り咲いた体操日本など、ヒートアップした熱い夏となった。その陰で柔道の井上のように悔しいドラマが演じられたことも忘れることはできない。寝不足が続いた日々は、外来診療にも影響したことは言うまでも ない。あれから早1年。月日の流れは光陰矢のごとし、とはよく言ったものだ。
オリンピックに思いを巡らせる度に思い出す事がある。私が大学病院をでて、常勤医師がたったひとりだけの関連病院勤務となった時の出来事である。
その年も暑く、オリンピックが開かれていた。

外来中に電話が回ってきた。もうすぐ予定日を迎える妊婦Hさんが出血したため受診したいとのこと。その後診療を続けながらもなにか胸騒ぎがする。医者をしていると、危険な匂いをかぎわけるアンテナが働くことがある。今度もこのアンテナがシグナルを送ってきたのである。ちょっと外来の手を止めて念のため手術場に連絡し、緊急手術があっても対応できるように確認する。
しかし、外来診療が終了してもHさんは顔を見せない。こちらから電話連絡をとるよう指示しているときに、救急隊から連絡が入った。Hさんが大量出血し救急車を呼んだとのこと。Hさんは当院に通院中の旨、これから向ってよいかとの連絡である。すぐに手術場を待機させて、血液センターに連絡して至急Hさんと同じO型の血液を手配する。
しばらくして、救急車のサイレン音が近づいてくる。到着したHさんは、大量に性器出血しており、両足を紐で縛って運ばれてきた。恐らく2000ml前後の 出血はありそうだ。顔面は青白く、痛みのためか苦悶様の表情である。しかし、母は強い。気丈に状況を説明し、「ご迷惑をかけます」と笑顔さえつくろうとする。一目みて「常位胎盤早期剥離」と確信する。出産前に胎盤が子宮から剥れ、窒息による胎児死亡や、大量出血とそれに伴う出血傾向で母体死亡さえ起こす危険な状態で一刻を争う。超音波で胎盤の状態と胎児心拍を確認する。通常は140前後の胎児心拍数が、60程度の徐脈になって窒息寸前の状況である。すぐに緊急手術を行う。

実に生命力の強い子だった。元気な産声を上げたのである。大量の輸血と、止血のために子宮全摘はやむない状況ではあったが、Hさんも一命を取りとめることができた。
出産時すでにオリンピック級の戦いを終えた赤ん坊の寝顔を見ながら、
「この子にはこの先どんな人生のドラマが待っているんだろう」。
天使のような寝顔が、なんだかたくましくみえる。素晴らしいドラマを演じてくれることを心から願った。
「GOOD LUCK」

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