その 2 私のバイブル

4月、野の花がここかしこに可憐に咲き誇る。毎年この季節になると決まって思い出す方がいる。その人は桜が好きだった。桜の季節を楽しみにしながら、その年の桜をみることなく散ってしまった。あれからもうすぐ6年。

その人との初めての出会いは私が奈良の中堅病院で勤務医をしていた時、その年は思いのほか暖かく、市内を流れる小さな川べりに1キロほど続く桜の並木は 見事な咲きっぷりを競った。50過ぎのその女性は、長年の苦労を深く顔に刻みながらも、その生き様とは不釣合いな素敵な笑顔で私の外来を訪れた。彼女の病名は子宮肉腫、婦人科領域では最も悪性度が強く、進行も非常に早い稀な疾患である。すぐに手術療法を行ったが、すでに腹膜に播種性の転移(種をまいたよう な複数の転移)を認めた。大小の転移巣を祈るように切除しながらも、医師としての冷静な意識の底では根治はかなりきびしい、とつぶやいていた。それから約 1年間、転移による腸管切除のため強いられた人口肛門の管理や祈りを込めた手術後の化学療法。彼女は気が弱いから病名は告知しないでほしいという家族の希望もあって、苦しい言い訳をしながら続けた治療。その年の秋、一時は全身状態も見違えるように良くなり退院にまでこぎつけた。

彼女の50年余りの人生は、結婚もせず、生活を支えるために働き続けた。苦しい治療中にも、弱音を吐かず、私や他のスタッフたちに笑顔を絶やさず。短い退院中に、ひとり身の回りを整理し、年の瀬に再入院。病院で向かえた最後の正月。それからまもなく彼女は旅立っていった。

その年の桜が咲き終えた頃、私の元に1冊の俳句集が届いた。闘病中に彼女が詠んだ俳句が自宅でみつかり、彼女の妹さんが製本して届けてくださったのである。今もときどき、一人俳句集を開いてみる。ご本人の承諾はもらえそうもないが、2編だけ紹介させていただく。

五十年 もどらぬ針の 時の音
世紀末 終わりは始め 始発点

中に3編、私に宛てて詠んでいただいたと思われる句が見つかった。その句は私だけの中に留めておく。
彼女は最初から病名を知っていた。気が弱い彼女は誰よりも強かった。彼女の俳句集は、わたしにとって医術のバイブルとなった。

「先生どうされたんですか」。いつになくやさしい言葉と心配そうな看護師のまなざしに、はっと我にかえる。今日は何故か暖かい。

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